こんにちは、yushiです。
関東在住の40代前半子なし共働き夫婦、セミリタイア(サイドFIRE・バリスタFIRE)を目指している元バリキャリ会社員です。
[前回の記事(第1回)]で、私は29歳で子宮頸がんを患い、子宮全摘出によって「子どもを産めない人生」が確定したことを書きました。
当時の私は、「女性としての責務を果たせなかった」「人が当たり前に持っているものが、自分にはなくなってしまった」という強い後ろめたさを抱えていました。
そもそも20代前半でうつ病を患っていた私は、普通に働けるようになるまで5年以上かかったスロースターターです。自分に対する劣等感や自己肯定感の低さに加え、さらに子どもまで産めなくなった。「もう自分には何も残されていないのではないか」――そんな絶望の中にいました。
その結果、「世の中で自分が存在していい理由を得るために、とにかく働くしかない」という、凝り固まった決意をするに至りました。
今回は、私が子なしの穴を埋めるために「仕事の鬼」として駆け抜けた30代と、40代になってそのキャリアへの執着をすべて手放すまでの軌跡をお話しします。
💡この記事は:
私が病気を乗り越えた話【第2回】です。
事務職から営業へ。「自分がやる理由」を求めて
会社へ復帰した当初、私は事務職でした。人を取り残さず下支えする仕事も嫌いではなかったのですが、定型業務があまり得意ではない自分にも気づき始めていました。
それ以上に、前線で走る営業担当の働き方を見ていて「これ、私がやった方がもっと実績出せるんじゃない?」と思い始めました。
私は会社に申し出て職種変更を行い、そこからは営業として働くことになりました。 決められた仕事をこなすだけでなく、ゼロから自分で案件を作り出し、売り上げを立てていく。競合との金額勝負で負けていても、「yushiさんの提案が良いので発注します」と言ってもらえる。
「私が前に出てやっているから、この実績が出せている」というのを実感できることが、とてもうれしかった。
一つひとつの成果が、削り取られてゼロになっていた私の自己肯定感を、少しずつ埋めていってくれました。
IT業界での「宇宙人と地球人の通訳」
私は長くIT業界にいます。最近でこそ女性の活躍も目立ちますが、業種によってはまだまだ男社会です。女性が増えてきても長続きせず辞めていく、そんな領域です。
私は昔からテクノロジーに興味はあったものの、ゴリゴリの文系です。エンジニアのように0と1の世界を扱えるわけではありません。がんからの復職後により専門的な業界に転職したのですが、何もないゼロベース、しかも若くもない中途半端な女性が入り込んできたのですから、周囲からは当然「お前に言ってもわからないよね」という冷ややかな目で見られました。
専門用語を並べ立て、わざわざ人の心をグサッと刺すようなトゲのある言葉を投げつけてくる人も少なくありませんでした。
悔しかったので、優しく教えてくれる人には真摯に向き合って期待に応えつつ
見下してくる人に対しては、何でもいいからこいつを超えてやろう。と思って仕事をしていました。
まぁ、ひたすら勉強しました。とにかく知識を貪り食うように詰め込みました。
しばらくすると、面白い変化が起きました。
エンジニアがお客さんとの商談で専門的な「宇宙語」を話し、双方がフリーズしている中、私が横からフォローを入れて会話を通じさせる。まるで「最初はお互いにコミュニケーションが取れなかった宇宙人と地球人の間に立ち、両方の言葉を覚えて翻訳している」かのようなポジションを確立していきました。
そんなことを続けて私が顧客の層を広げていくと、かつて私を見下していた人たちは、何も言ってこなくなりました。「あー、勝ったなぁ」と思いました。
メール数百件、会議8件。イライラしながら走り続けた管理職時代
当時私は、インフラを支える仕事をしていました。24時間365日、問題なく動くことが当たり前という世界です。
一度トラブルが起きれば、夜間だろうが休日だろうがガンガン連絡が入ります。常に手元に社用携帯を置き、5分に1回はチラチラと画面をチェックする。寝る前も、休みの日も、常に神経は張り詰めたままでした。
本来なら、方針をジャッジして指示を出すのは管理職の役目です。しかし当時の職場は、意見は出てくるものの「じゃあこう進めましょう」と采配できる人が少なく、マネジメント・指示系統の機能がうまく働いていませんでした。
結果、平社員だった私が周りを仕切り出し、周囲からも「もうこいつを上に上げた方がいいんじゃないか」という雰囲気になり、私はたたき上げで管理職へと昇進しました。
1日に来るメールは数百件、会議は多い日で8~10件、ようやく事務仕事ができる時間になったら、私の苦手な「雑談」が繰り広げられる。
周りに帰れーと声をかけ、私は定時にサッと帰って家で夫の晩ご飯を用意し、そこからまた自宅でパソコンを開いて夜遅くまで仕事をする――そんな生活が何年も続きました。
当時の私を振り返り、夫は「いつもイライラしていた」と言います。
どんなに忙しくても、食事だけはしっかり用意したかったんですよ。週末の作り置きを駆使して3品作りたいという強いこだわりがありました。フルタイムの看護師だった母の背中を見て育ち、「温かいご飯をちゃんと出してあげたい」という理想があったこと。そして何より、「妻としての存在価値」だけは、何としても守りたかったのだと思います。
退職していく後輩やパートナーの女性たちから「みんなyushiさんのような仕事の仕方に憧れていました」と何度か言っていただいたことがあります。
嬉しかった。けれど、同時にものすごく複雑でした。 なぜならその頃の私は「あれ、私ってそもそも何のために、こんなにゴリゴリ働いているんだっけ?」と、自分の生き方に疑問を抱き始めていたからです。
よく見渡せば、私生活を犠牲にして私と同じ熱量で働く女性は周りに全然いなくて。ロールモデルもいないから、自分の将来もよくイメージできないままずっと走るしかなかった。でももし私に子どもがいたら、物理的にこんな働き方は100%不可能だと思います。歪なバランスの上に成り立っているキャリアでした。
やりきった時に見えた景色と、違和感
管理職になって数年が経ったある日、ふと不思議な感覚に包まれました。
少し前まで「あの人に追いつこう」「対等に会話できるようになろう」と必死に勉強していたはずなのに、気づけば社内の大半の人と対等以上に話せるようになっている自分に気づきました。
役員とも対等に意見を交わし、頼られる存在になった。 「この人を追い越したい」と思える目標が、社内に誰もいなくなった感じがしたのです。
そうなると、仕事の内容が変わってきます。 新しく仕事を取りに行ってワクワクするフェーズは終わり、待っているのは「他人の尻拭い」ばかり。実務は減らないのに、中間管理職としてのフォローや新人教育の負担だけが雪だるま式に増えていく。
「これ、どう考えても物理的に限界でしょ」。明らかに時間が足りない。実務は下に渡していけと言われるかもしれませんが、組織が急激に若返りを図ったツケで下は育っていません。
上司にアラートを出しても、リソース不足で状況は変わりません。さらに上を見れば、部長も役員も、四六時中忙しそうに動き回っている。昔聞いていた「上に行けば行くほど仕事は楽になる」なんて大嘘で、休日も会食だゴルフだと、みんな会社に人生を捧げているのかい?と思えるような姿しかありませんでした。
「このままこの組織で上を目指したとして、私はこれ以上何を求めたいんだろう?ここにワクワクする未来はあるの?」
その横で、障害やクレームを知らせるスマホの通知。
限界を迎えた私の視線は、自然と「外」へ向いていきました。
ふと横を見たとき、そこにはずっと仕事にかまけてほったらかしにしていた夫がいました。 「あれ?私、何のためにこの人と結婚したんだっけ?」
さらにその頃、30代からコツコツと続けていた投資が実を結び、年間で私の額面年収を遥かに超える含み益が出るほどにお金が貯まってきていました。
経済的な不安が消えた、張り詰めていた糸がプツンと切れた感じがしました。そして時期を同じくして、まだ若い親族がたて続けに亡くなる…という事態も起こりました。
元々は、子どもが産めない劣等感や、自己肯定感を満たすために仕事にのめり込むしかなかった。それ自体は、当時の私を守るための大切な防衛反応だったのかもしれません。
でも40歳を過ぎて冷静になった今、
人生あと何年生きられるかわからないのに、仕事だけにのめり込んで終わるのか。大切な夫も放置して、趣味も見つけず、大して面白くもなくなった仕事にしがみついて一生を終えるの?……それって、めちゃくちゃやばくない?
こんな感覚に苛まれるようになりました。
仕事の鬼の終焉、そして「夫と2人の人生」へ
かつて子どもを失った寂しさを埋めるための「盾」だったキャリアは、いつしか自分を苦しめる「鎧」に変わってしまっていた。
私は、これまで自分を縛り付けていた「存在理由のための仕事」への執着を、すべて手放す決意をしました。その具体的なセミリタイアへのステップや、私の背中を押した周囲の環境の変化については、以下の記事に詳しく書き綴っています。
子どもがいないからこそ、私たちは2人で自由になれる。 仕事の鬼だった30代を経て、私は今、ようやく夫の隣で本当の自分の人生を歩み始めています。





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